季節と読書の日記

移り変わる季節、生活の中で思い出す物語を紹介します。

チョコの季節には甘い気分で読書を――『竹久夢二 恋の言葉』

みなさん、こんにちは。

一昨日はバレンタインデー。お店でも可愛らしいチョコレートがたくさん売られていて、甘い香りまで漂ってきそうなスイートな雰囲気に満ちていました。

 

大切な人に渡したり、友達と交換したりするのもいいですが、自分用のチョコを用意するのも忘れてはいけません。こんな時は、甘い空気に身をまかせ、甘い気分で読書をするのもいいものです。

 

甘い乙女な気分でページを開くのは、石川桂子編の『竹久夢二 恋の言葉』です。

大正ロマンを象徴する画家竹久夢二は、いろんな恋をしてきたそう。その体験から夢二が残した恋愛の言葉を選び、夢二の恋愛観・女性観に迫った本です。

挿絵も多く載っていて、大正ロマン・夢二好きにはたまらないかもしれません。

表紙のイラストも可愛い。

 

大正から昭和の当時の価値観や思想かと思いましたが、意外と現代でも共感できる言葉もたくさんありました。

いつの時代も、恋愛観の根底って変わらないのかも……。

 

個人的に好きなのは、

 

「はじめ男は恋を恋ふ。終に女を恋する。女ははじめ男を恋する、それから終に恋を恋する。」(『日記』大正四年三月二九日)

 

「自分で撰んだとおもはれる夫婦を見たまへ、どこかしら顔にも性格にも共通なところがあるものだよ。

不釣合だなどどつちかで思つてゐるとするとそりや間違だ。」(『日記』昭和二年六月一六日)

 

ちょっと皮肉がきいているのに、なんとなく、そうだなと思わされる言葉たちです。

恋愛は甘いだけでなくビターなチョコレートってことでしょうか……。

 

また、日記や手紙、雑誌に載せた言葉を集めたものなのに、とても詩的な表現が多いと感じました。夢二の挿絵と併せて詩集のようにも楽しめます。

 

あと、マンドリンを弾く夢二の写真が載っていましたが、イケメンでした。

 

チョコを食べながら、甘い気分で。

余談ですが、カラーチョコスプレーって、なんであんなに美味しんでしょうか。

見た目も楽しくてワクワクした気持ちにさせてくれ、アイスにもチョコにもケーキにも花を添えてくれます。手作りにはついついかけてしまいます。

 

糖尿病には気をつけて、甘い時間を過ごしましょう。

 

節分の夕べにーー「おにたのぼうし」

みなさん、こんにちは。

少し久しぶりになってしまいましたが、お元気でしょうか。

 

今日は節分ですね。外に出ると、小さな子供の「鬼は外、福は内」という声が聞こえてくることもあります。

そんな時、思い出すのが、あまんきみこ作の「おにたのぼうし」です。

この話は、小学校の国語の教科書に載っていたと記憶しているのですが、タイトルや結末が思い出せずにいました。

ですので、思い出したこの機会に「節分 児童書」で検索しました。

作者のあまんきみこさんは、ほかにも「ちいちゃんのかげおくり」(こちらも教科書などでご存じの方が多いかもしれません)などを書かれている児童文学作家でした。

 

タイトルがわかったので、記事やNHKの読み聞かせ番組「おはなしのくに」に辿りつけました。

この「おはなしのくに」はネットで教材用として公開しているのか、こだま愛さんの優しい朗読を最初から最後まで楽しめました。

 

気になる「おにたのぼうし」の内容ですが、優しい世界観なのに考えさせられるものでした。以下内容になります。

 

ストーリー

 節分の夜のこと、まことくんが元気に豆まきをはじめます。まことくんの家の物置小屋に、黒おにの子供のおにたは住んでいたのですが、仕方ないので出て行くことになります。おにたは、なくしたビー玉を拾ってやったり、にわか雨に濡れないように洗濯物をいれてあげたり、お父さんの靴を磨いてあげたり、良いことをしてくれているのですが、だれもおにたがしたとは気づきません。

 おにたは古い麦わら帽子(角を隠すためのもの)をかぶり、雪の中を歩きます。どこの家も豆まきをし、ひいらぎを飾ってある(ひいらぎは鬼の目を刺す)ため、中に入れません。

 一軒の豆のにおいもしない、ひいらぎも飾っていない家を見つけたおにたは、中から女の子が出てきた隙に忍び込みます。家には、女の子のお母さんが病気で寝ていました。看病する女の子に、お母さんは「お腹が空いたでしょう」と問いかけます。女の子は、今日は節分だから余ったご馳走をもらって食べたと言います。貧しく寂れた台所を見て、おにたは女の子の嘘に気づくのです。そして、どこから持って来たのか、女の子が言っていた通りのごはんを、節分だからご馳走が余ったと言って差し出します。

 笑顔になった女の子ですが、今度は豆まきがしたいと言い出しました。おにが来たら、お母さんの病気が悪くなるからと。おにたは悲しそうにしていましたが、こおりがとけたようにいなくなってしまいました。あとには麦わら帽子だけが残されていて、その下からは、まだあたたかい黒豆が出てきました。

 

切なすぎませんか。節分の夜、雪の中を鬼の子供が入れる家を探して歩いているシーンは覚えていたのですが、話全体が寂しかったですね。

寒い外から、よその家のあたたかそうな様子が見えるけど、自分は入れない、そんな気持ちになります。優しさと冷たさの空気感が、まさに冬と春の境目、節分でした。

 

そして、実は調べる前、登場する鬼の子供は、ちょっと悪戯をするような子で、貧しい女の子を見て改心して助けるけど、豆まきをして消えてしまう――というような内容だった気がしていました。

これは、鬼=悪さをするという固定観念があったからだと思います。気をつけなくてはいけません。

作中でおにたが「おにだって、いろいろあるのに」と言っています。見かけや、所属、属性で判断してしまう悲しさを説いているお話だったのです。

女の子もお母さんに元気になってほしい優しい女の子で、おにたも人間の家に住みつき、そっと手助けをしてくれる優しい鬼でした。なのに、なんともいえない切ない気持ちになるお話、節分の機会にいかがでしょう。

 

ちなみに、私はちゃんと豆まきをします。年に一度食べる素朴な炒った大豆は美味しいです。

恵方巻も近年は色々な種類があって、食べ比べて楽しんでいます。

 

みなさんも、無病息災を祈って、節分味わってみてくださいね。

 

七草粥と百人一首

こんにちは。

昨日、土曜日は暖かく、春のような日和でしたね。

お正月から大変な出来事ばかりで、気持ちも落ち込んでいましたが、街で梅の花や菜の花が売られているの見て、少しほぐれたような気がします。

今日、一月七日は人日の節句七草粥を食べる日ですね。

春の七草というと、百人一首にもある光孝天皇の歌「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ」の一首を思い出します。

 

中学生の時に、クラス対抗の百人一首大会があったのですが、当時私は古文が苦手で、一首しか覚えられませんでした。冬休み明けの大会で、唯一取れた札、それが唯一覚えられた上記の歌だったのです。

この歌はなぜか、私にも情景がすうっと思い浮かべられ、素敵な歌だなと感じたことを覚えています。

もちろん、寒い雪の中、若菜を摘んだことはありませんが、白い雪と若菜の緑、冷たい指先で摘み取る感覚、大切な人を想う気持ちなど、想像して美しいと思ったのです。

 

そんな想像をしながら、七草粥を作ります。真っ白いお粥に鮮やかな春の七草が綺麗です。かじかむ指で七草を摘まなくても、現在はスーパーマーケットなどで、七草の詰め合わせを買うことができ、手軽に季節を感じられます。

 

せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ。

 

七草は塩を少し入れて茹でて刻み、炊飯器に作ってもらったお粥にのせるだけです。

とても簡単にできてしまいます。

七草を洗う時だけ、冷たい水に手を濡らし、少しだけ「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ」の気持ちを味わいます。

便利な生活を送れることに感謝しつつ、無病息災を祈っていただきます。

 

毎年、この季節になると、冷たい風の中にも春が近づいているような気がするのです。

優しい春が、あたたかい春が、訪れることを願っております。

 

左から、せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ、であっているはず。

 

春の七草粥。緑が綺麗。

 

大晦日に総決算、お金は大事だよという話。「大晦日はあはぬ算用」と「大つごもり」

皆さん、こんにちは。大晦日、忙しいですね。

私は掃除や買い出しなどで、後回しにしていたレシート整理と家計簿から目を背けています。

 

ところで、大晦日のことを「おおつごもり」というとご存じでしたか。私は大学生の時、江戸前期の浮世草子作者井原西鶴の『西鶴諸国はなし』に収められている「大晦日(おほつごもり)はあはぬ算用(さんよう)」というお話で知りました。

「おおつごもり」という音が面白くて、それからは時々使っています。

 

この『西鶴諸国はなし』は不思議なお話が多く収められていますが、「大晦日はあはぬ算用」も、見方によってはちょっと不思議なお話かもしれません。

以下あらすじをご紹介します。

 

原田内助という浪人は、掛売りの代金を取りに来た米屋を追いかえし、女房の兄に金の無心をする貧乏な生活をしています。その女房の兄、迷いながらも十両を送ってくれました。喜んだ内助は、仲間を七人集めて宴会を始めます。そこで、手に入れた十両を見せます。ところが、酒が進み、小判を仕舞おうとしたところ、一両足りません。

一人ずつ衣服を脱いで確かめていたところ、三人目の人は、たまたま一両持っていると言い、切腹しようとして大騒ぎになります。そこに、誰かが「小判はこれにあり」と行燈の陰から小判を投げ出しました。すると次に女房が、重箱の蓋にくっついていましたと、もう一両持ってきます。全部で十一両になってしまいました。誰かがこの危機を救うために一両を投げ出したのだと思ったが、誰も名乗り出ません。

内助は、一両を庭の手水鉢の上に置いて、一人ずつ帰ってもらうことにしました。全員が帰った後、見てみると、一両はなくなっていたということです。

 

現代人の感覚からすると、宴会しながらお金を見せない方がいいよって言いたくなりますね。そして、一両がもとの持ち主に返っているといいですね。

「かれこれ武士のつきあい、格別ぞかし」と書かれているので、客も内助も対応が素晴らしかったと、素直に読めば受け取ることができます。

しかし、この中に犯人がいる……とか、第三者が一両を投げ込んだとか、色々考えても面白い作品です。

また、井原西鶴は『世間胸算用』という大晦日の町人生活を描いた作品も書いています。

 

この前、この作品を話題にしたら、「樋口一葉も「大つごもり」って書いてるよ」と、教えてもらいました。知らなかった……。

調べてみると、井原西鶴の文体や発想に影響を受けた作品のようで、ウィキペディアの他にも、論文などが検索ヒットしました。有名だったんですね……。

 

というわけで読んでみました。

あらすじを紹介したいのですが、最後がオチとして面白い印象だったので、ネタバレしたくない方は気をつけてください。

 

主人公は厳しい御新造(奥様)のいる家で奉公する十八歳のお峯。父母を亡くしていますが、育ての親である伯父が病に倒れ、借金もしてしまいます。借りた十円の期限が迫り、をどり(期限を延ばしてもらうときに払う金)と、年越しのための金を奉公先で借りて来て欲しいと伯父から頼まれます。

さて、お峯が奉公している家には、石之助という息子がいますが、今の奥様の息子ではないようで、十五の春から不了簡をはじめ(良くない考え、不良になったというところでしょうか)、金遣いも荒い放蕩者でした。石之助が帰ってくると、奥様も機嫌が悪くなり、お金を借りられそうにありません。お峯は仕方なく硯の引出しから、束(札束)のうち二枚を盗んでしまいます。

石之助の方は父親に無心して五十円束を受け取り出て行きますが、お峯の方は先程の盗みがバレてしまうのではと心中穏やかではありません。なにしろ、今夜は大勘定といって、あるだけの金をまとめて封印する日だったのです。伯父に罪がいかないよう、自害も決意するお峯でしたが、硯の引出しの中から、なんと束ごとなくなっているではありませんか。ただ「引出しの分も拝借致し候  石之助」と書かれた紙切れが見つかりました。

 

おかげでお峯は助かったのですが、石之助は知っていてお峯を助けたのか、知らないで金を盗んだのか、見方によって印象が変わりますね。

お峯の伯父も回復すればいいのですが。きっと年が明ければ良い方向に向かってくれると願わずにはいられません。

 

どちらのお話もお金は大事だと思わせてくれますね。

さて、私は年末にATMに寄るのを忘れましたが、お財布の中に樋口一葉を発見したので、無事に今年は彼女と年越しです。

皆さん、よいお年をお迎えください。

そろそろクリスマス、『賢者の贈り物』のかわいいカップルの話。

こんにちは。矢木田です。

いよいよクリスマスですね。キラキラ光るイルミネーションやクリスマスソング、ケーキの広告など、楽しいものがたくさんでワクワクする季節です。

欲しいものや、買いたいものもたくさん! なんて人も多いはず。

でも、楽しい気分とはうらはらに、お財布の中はさみしかったりします……。

 

お札と小銭の残りを数える時、ふと、О・ヘンリーの『賢者の贈り物』の冒頭を思い出します。

 

一ドル八十七セント。それだけだ。

(大久保康雄訳『О・ヘンリ短編集㈡』新潮文庫、1969年)

 

はじめてО・ヘンリーを読んだのは小学生の時で、1ドル87セントがどのくらいの価値なのかわかりませんでした。

ですが、主人公の住んでいるアパートの家賃は週8ドル。ひどくはないが、裕福でもなさそうな部屋です。

また、いろいろと値切って大切に貯めたお金であることも書かれているため、少ないながらも大事な1ドル87セントであることがわかります。

 

いきなりお金の話から始まる『賢者の贈り物』、とてもほっとする短編で、クリスマスのお話でもあります。有名なのでご存じの方もいらっしゃるとは思いますが、簡単にあらすじを紹介します。

 

主人公デラは、1ドル87セントしかお金がないと嘆いています。というのも、明日はクリスマス。愛する夫ジムにプレゼントを買ってあげられるお金が1ドル87セントしかないのです。

ところで、この夫婦には宝物が二つありました。ジムの金時計と、デラの美しい髪です。

デラは自分の髪を売り、ジムのクリスマスプレゼントを買うことにしました。そして、ジムの時計にぴったりのプラチナの時計鎖を買いました。家に帰ったデラは、短くなった髪を巻き、ジムの帰りを待ちます。

帰ってきたジムは、デラを見てひどく動揺している様子です。それもそのはず、ジムはデラがあこがれていた櫛のセットをクリスマスプレゼントに買ってきたのです。自分の時計を売って……。

 

タイトルや作中にも「賢者」と、ありますが、これは東方の三博士とか賢者たちと呼ばれる人たちで、イエスが誕生した際に贈り物をした人たちです。新約聖書の「マタイによる福音書」には、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたとあります。

 

東方の賢者たちとか、相手に贈り物をするために大切なものをなくしてしまった二人はむしろ愚かなんじゃないかとか、難しいところもありますが、とにかくデラとジムの相手を想う気持ちが尊いので、一度読んでみることをお勧めします。

髪が短くなってジムに嫌われたらどうしようと思い悩むデラはめちゃ可愛いし、ジムはデラの短い髪に驚きつつも「髪を剃るとか切るとか洗うとかで、僕の愛している妻を好きでなくなるわけがない」とカッコいいことを言います。

二人がお互いが大好きというのが伝わってきます。それも含めて読んでいただけたらどの辺が「賢者」だったのかなんとなくわかると思います。そして何回読んでも萌えました。

短編なのでちょっとしたプレゼントにもいいかもしれません。

 

О・ヘンリーの作品の男女は、推せるカップルが多いのでいろんな方の訳で読んでみるのも楽しいです。訳者の方の解釈も楽しめます。

またこのブログでもО・ヘンリーの作品は取り上げたいと思ってます。

 

皆さんも、すてきなクリスマスをお過ごしください。

 

自己紹介とご挨拶

はじめまして。

矢木田香菜と申します。

 

この度、ブログを始めました。

というのも、最近、SNSやブログなどで発信している方々の様子をうかがう機会が増え、それがとても楽しそうで自分もやってみたくなったからです。

好きなことはたくさんありますが、まず思いついたのが読書でした。読書家、というほどの読書量はなく、お恥ずかしいかぎりですが、お付き合いいただけると嬉しいです。

 

さて、このブログでは、私が移り変わる季節の中で、「あの小説みたいだな」「そういえばこんな場面があったな」といったふうに思い出す、小説を中心とした作品の紹介と、感想を綴れればと思っています。

季節を感じたり、新しい本を読むきっかけにしていただいたり、懐かしいと思っていただけると幸いです。

 

これからこのブログと共に成長していきたいと思います。よろしくお願いします。